≪21世紀COE研究拠点形成プログラム「心の働きの総合的研究教育拠点」第14回講演会≫
(共催 第3回オーラルヒストリー研究会)
・日時 10月5日(日)13時〜17時
・場所 京大大学院人間環境学研究科地下会議場
・コーディネータ やまだようこ
・共通テーマ 「喪失の語り」
・講演者
喪失の語り---大切な人を亡くしたときの語り
やまだようこ(京都大学・教育学研究科)
司会 松島恵介(龍谷大学)
喪失の語りの喪失ー自殺によって遺された人々の語り
川野健治(国立精神・神経センター精神保健研究所)
司会 サトウタツヤ(立命館大学)
<講演要旨>
「喪失の語り---大切な人を亡くしたときの語り」
やまだようこ(京都大学大学院・教育学研究科)
きみはまだ若いからこの現実世界で見喪って、それをいつまでも忘れることができず、それの欠落の感情とともに生きているという、そういうものをなくしたことはないだろう?まだ、きみにとって空の、百メートルほどの高みは、単なる空にすぎないだろう?・・・それとも、今までなにか大切なものをなくしたかね?
大江健三郎「空の怪物アグイー」
人生のさまざまな時期に人は喪失に出会う。子どもだって大切なものを失う。机の引き出しのなかにこっそりしまっていたきらきら光る宝物のような蝶々の羽を無くしたときの悲しみは、大人にとってはとるにたらないものであっても、当の子どもにとっては忘れられないくらいの切ない記憶だ。
私がライフストーリー、特にそのなかでも「喪失」という観点に注目するようになったのは、今まで大きな物語として、「獲得」、「進歩」、「回復」、「成功」ストーリーが語られてきたことがあげられる。喪失に眼を向けることは、人間の人生のポジティヴな部分だけではなく、ネガティヴにみえていた部分をも視野に入れ、さらにはその明暗の価値逆転をすることで、両行するものの見方をする眼をもつことになる。
また、語ることは、それ自体が「喪失」を経験することである。ことばは、人生の経験を語るには不十分な器である。語るという行為は、喪失に直面しながら、ことばの不十分さを自覚しながら、それでもいくぶんかのことばを紡いで、それで何かを伝えようとするアクチュアルな実践である。
今回は、大切な人を亡くしたときの二人称的な「語り」の特徴を、仮定法などを用いた「想定された現実」の語り、「死者に見守られる」という想像世界の語りという観点から考えてみたい。また、生と死のぎりぎりの境界にあるとき人は何を語るか、その特徴についてもふれてみたい。
「喪失の語りの喪失ー自殺によって遺された人々の語り」
川野健治(国立精神・神経センター精神保健研究所)
2000年に(あしなが育英会の)自死遺児・遺族によるはじめての文集「自殺っていえない」が発行され、大きな反響をよびました。この「いえない」とはどのような事態でしょうか。
自殺によって遺された人々の自己物語りの共通点の一つは仮定法過去によって表現される自責の念です。「あの時、もう少し気をつけていたら止められたのかも知れない」。この可能性をめぐる語りは苦しく、そして「語りえないという語り」が構成されているのかもしれません。
同時に自殺によって遺された人々は、社会からの拒絶的・批判的態度や周囲の人々との気遣いの相互作用の中で、その経験を語る機会を失っていきます。
自殺によって遺された人々への面接、支援組織での聞き取り、あるいは文集や質問紙調査など二次的な資料とあわせながら、この「いえない」という状況を入り口として、自殺によって遺された人々の自己物語りを考えていきたいと思います。